ジャパンタイムスインタビュー
ルーベン・ボイキン、シーズンを振り返って
中村和雄監督は、何十年ものキャリアを経てアップテンポで早い展開をスタイルとするバスケットボールを追求し、自ら指揮するチームでそれを実現させてきた。その中でも近年は、早い展開の中でも素早く3ポイントシュートを打つことができる選手を、チームに数名そのスタイルに取り入れてきていることも印象的である。
中村氏のその”ラン&ガン”スタイルは、浜松東三河フェニックスで指揮を執った09-10、10-11シーズンの優勝、2連覇という結果で実証されている。後の11-12シーズンより、彼は故郷である秋田にそれを持ち込むこととなる。
今シーズン、中村のハピネッツは強さと緻密さを兼ね備え、外角、内角ともに高得点を奪える破壊的で多彩な攻撃を見せつけた。
驚くことに、フォワード・ルーベンボイキンは中村監督に、より攻撃的なプレーを彼に求められていなければ自分の能力はここまで引き出されることはなかっただろうと語った。
“シーズン開幕前、中村監督からは積極的にシュートを打って欲しいと言われていた”
ボイキン氏は金曜日に行われた電話取材で明らかにした。
“僕はそんなに得点を取る必要がないって言ったんです”とボイキン氏は中村監督に言われた言葉の後に付け加えた。ノーザンアリゾナ大学出身の彼は、ベテラン監督に、チームの得点源は主にガード・富樫勇樹、もう一人のフォワード・リチャードロビー、215cmというどのチームでも抑えることが難しい大型センター・チェイスマクファーランドであるとし、彼らが真っ先にボールをもらうべき選手だとした。
6月20日に29歳を迎えるボイキン氏は、そんなチームの要となった。
彼いわく、”僕は基本的にパズルの穴を埋めるようなやつだよ“と自己分析する。
試合によっては得点もリバウンドも多く取ってしまうこともあった。(9試合で20得点以上を達成、11月30日・12月1日では2試合連続で20リバウンドを記録した)
ボイキン氏は一貫して、自信と絶え間無い努力で攻守ともに貢献したことは言うまでもない。平均13.9得点、リーグ最多平均13.5リバウンドとレギュラーシーズンでは活躍した。
さらに、70本もの3ポイントシュートを沈め、183本ものアシストを記録した。(たったの93ターンオーバーに加え、52スティールも記録)
全ての積み重ねの結果、ボイキン氏にとっては良いシーズンだっただろう。2007年に大学を卒業し、ハピネッツでは40勝-12敗の成績で東地区3位、プレーオフではシード権も手に入れる事が出来た。
“彼は(選手の意見を)何でも受け入れてくれるコーチ、たぶんこんなコーチは高校時代ぶりだよ”と中村監督について語った。”大学時代の監督(マイク・アドラス氏)もとても良かったけど、中村監督は、彼は僕のことを理解してくれて僕がやりたいプレーをさせてくれた”
*
ハピネッツはプレシーズンマッチを負け無しの5勝、レギュラーシーズンを開幕12連勝と好発進した。17勝2敗と、2敗してからも再び12連勝と快進撃は続き、2月9日の時点で29勝5敗としていた。(その一方、埼玉ブロンコスは今シーズン5勝のみ)
秋田は勢いそのままに勝ち上がってのぞんだ5月25日、決勝、対琉球ゴールデンキングス戦で103-89と惜敗した。
“僕らより力の差が大きく上回っていたわけではないし、負けた感じがしないんです”とボイキン氏は伝えた。
“僕らはドラマチックな勝ち方をした試合がいくつかあったし、それと良い時と悪い時も何度かあった”とカリフォルニア出身の彼は付け加えた。”僕のお気に入りの試合は、岩手戦、ファイナルフォーを(有明行きが)確信した時だね”(5月11日東地区準決勝第2戦を82-59で下した)
“僕はたくさん試合してきたし、大勢の人の前でもたくさんプレーしてきた”、彼はこう続けた、”でも、アウェーで、全員がピンクを身に付けて相手の体育館を(秋田が)丸ごと占領しちゃうような中ではプレーしたことがない。あれは信じられなかった。きっとあの試合がプレーしていて一番楽しめた試合だったかな、、、それと、言葉はよく分からなかったけど、ファンのみんなと秋田県民歌を歌えたこと。こんなシーズンを過ごせたのはファンのおかげだよ”
ファイナルから一夜明け、中村監督行き付けの飲食店でチーム全員でご飯を食べた。
“みんなハッピーだったし、みんなとても良い時間を過ごせたよ”とボイキン氏は夕食会について述べた。その後、73歳の中村監督について話題が切り変わった。
“彼は僕が知っている70歳オーバーの誰よりもエネルギーのある人だよ、、、、彼は(バスケ含めあらゆることに対して)知識が豊富だからね”とボイキン氏は話した。
“彼はまだまだ指揮を執れるし、誰かが(監督として)引っ張ればすぐやるだろうね”
ノーザンアリゾナ大卒業後、ボイキン氏のプロとしてのキャリアの中で、ポーランド、ギリシャ、イタリアで足踏みをしたこともあった。コート上での決意と強い精神力をモチベーションとし、日本では初となった、13-14の今シーズン、彼は高い目標を持って戦っていた。
“僕は日本に行く前、リバウンドでタイトルを取りたいと言っていたんだ”とボイキン氏は打ち明けた。”これは僕にとって今も今までも大きな目標にしていること。僕が試合中、唯一自分でコントロール出来ることと言えば、努力と熱意だと思います。僕にはこれをコントロールすることが出来るので、リバウンド王を取ることも可能だった訳です。だいたい、(試合が)終わって見ると、高い数字を記録しているんですよね”
“僕はそれを勝ち取るために来て、実際に勝ち取ることが出来てとても驚いてるよ”
ハピネッツにとってボイキン氏は、チームにとっても実に必要不可欠な存在で、リーグの中でも最も優れたオールラウンダーなプレイヤーの一人だったと言える。彼が来シーズン14-15もハピネッツでプレーするとなれば、ローポストでの活躍は言うまでもなく、ファイナルフォー行きも約束されるだろう。
ボイキン氏は来シーズンについて、妻と代理人とじっくり話し合って今後のことは決めていきたいとしている。ヨーロッパに戻ってプレーすることも視野に入れているとのこと。
bjリーグ特有のスポーツコートについて、過去8シーズン取材してきた選手の誰しもが口を揃えて(木の床ではなくプラスチックコートでプレーするのが)嫌だと言っている。
共通して言われ続けているのが、木の床よりも身体への負担が大きいということ。
“スポーツコートは僕の膝を本当に痛めるんだ”とボイキン氏は言い、その床での”試合数の多さ”についても言及した。
“それと2日連続で試合すること、その試合との間に回復時間が24時間もないことには、あまり長く付き合っていられないよ”
やはりこれからの期待の星として今シーズンのチームに大きく貢献した富樫勇樹選手についてもボイキン氏は率直にこの20歳のポイントガードのパフォーマンスについて感想を述べた。
“もし東地区を1位で終われていたら勇樹がシーズンMVPだっただろうね”とレギュラーシーズンの活躍もひっくるめて称賛した。
ボイキン氏によると、富樫選手をあの若さと年齢でスターに変貌させたのは彼の練習姿勢にあるとしている。
“彼は本当にハードに取り組むし、中に切り込んできたときは素晴らしいくらいフィニッシュまで持って行くのがうまい”とし、富樫選手が練習後に欠かさずやっている”常にビッグマンがブロックに来ることを想定したフローターの練習”の成果だと付け加えた。
“ミドルレンジのシュートも決めれるし、3ポイントも打てる。彼には素晴らしいボールハンドリングが身に付いていて、、、恐れ知らずで、集中力がある”とボイキン氏は言う。
コート上での富樫選手についてボイキン氏は”相手がどれだけアグレッシブなやつかはどうでもいい、俺がお前を殺してやる、くらいの顔を彼は持っている。そしてその顔こそが彼の恐れ知らずさなんだと思うよ”
“毎日の練習で、こいつはまるで動物のようだった”とボイキン氏は言い、”本当に彼の今後のキャリアには成功が待っているとしか思えない”
リバウンド王は富樫選手が将来NBAでプレー出来るだけの素質を持っていると確信している。
ハピネッツのファンに対して感謝と敬意を持ち、チームの熱い友情も感じながらハピネッツでプレーしたボイキン氏だが、bjリーグのプレーオフの形式に関する意見は真逆なものとして区別しておきたいところだ。
ここ数年間、ジャパンタイムスの取材の中でたくさんの選手や監督が証言してきた通り、bjリーグのミニゲーム形式はやめた方がいい、と彼は主張した。
“僕は、選手たちが2試合を戦って、それで10分ゲームでシリーズの勝負を決めるって言うのには選手たちの努力はそれに(10分に)値しないと思う”
さらに、ファイナルフォーのコンパクトなスケジュール形式もチームによっては対戦相手に向けた入念な準備や調整をする機会が、奪われてしまうこともある。
例えば、琉球のガード・岸本隆一選手。プレーオフMVPにも選ばれ、決勝では34得点を挙げた。あれは全く予期できなかった、とボイキン氏は認めた。
“あの試合の岸本はとんでもなかった”とボイキン氏は言った。”あまり彼のことは分析していなかったんだ。沖縄と対戦したことはなかったからね、、、、彼らは決勝の舞台を経験上知っているし、何をすべきか分かっていた。それが僕らには足りなかった。僕らは富山に対してずっと準備していたし、そっちの方に気が向いていたからね”
ボイキン氏にはシーズン通しての活躍に称賛を送るとともに、秋田ノーザンハピネッツにとってはハリウッド映画のようなハッピーな終わり方は出来なかったが、確実にリーグの中でもエリートフランチャイズの一つとなることが出来た。そして今回の飛躍的な活躍とこの歴史は、若いフランチャイズ(球団)としては確実に経験しておきたかったことだろう。
ジャパンタイムスインタビュー
ルーベン・ボイキン、シーズンを振り返って
中村和雄監督は、何十年ものキャリアを経てアップテンポで早い展開をスタイルとするバスケットボールを追求し、自ら指揮するチームでそれを実現させてきた。その中でも近年は、早い展開の中でも素早く3ポイントシュートを打つことができる選手を、チームに数名そのスタイルに取り入れてきていることも印象的である。
中村氏のその”ラン&ガン”スタイルは、浜松東三河フェニックスで指揮を執った09-10、10-11シーズンの優勝、2連覇という結果で実証されている。後の11-12シーズンより、彼は故郷である秋田にそれを持ち込むこととなる。
今シーズン、中村のハピネッツは強さと緻密さを兼ね備え、外角、内角ともに高得点を奪える破壊的で多彩な攻撃を見せつけた。
驚くことに、フォワード・ルーベンボイキンは中村監督に、より攻撃的なプレーを彼に求められていなければ自分の能力はここまで引き出されることはなかっただろうと語った。
“シーズン開幕前、中村監督からは積極的にシュートを打って欲しいと言われていた”
ボイキン氏は金曜日に行われた電話取材で明らかにした。
“僕はそんなに得点を取る必要がないって言ったんです”とボイキン氏は中村監督に言われた言葉の後に付け加えた。ノーザンアリゾナ大学出身の彼は、ベテラン監督に、チームの得点源は主にガード・富樫勇樹、もう一人のフォワード・リチャードロビー、215cmというどのチームでも抑えることが難しい大型センター・チェイスマクファーランドであるとし、彼らが真っ先にボールをもらうべき選手だとした。
6月20日に29歳を迎えるボイキン氏は、そんなチームの要となった。
彼いわく、”僕は基本的にパズルの穴を埋めるようなやつだよ“と自己分析する。
試合によっては得点もリバウンドも多く取ってしまうこともあった。(9試合で20得点以上を達成、11月30日・12月1日では2試合連続で20リバウンドを記録した)
ボイキン氏は一貫して、自信と絶え間無い努力で攻守ともに貢献したことは言うまでもない。平均13.9得点、リーグ最多平均13.5リバウンドとレギュラーシーズンでは活躍した。
さらに、70本もの3ポイントシュートを沈め、183本ものアシストを記録した。(たったの93ターンオーバーに加え、52スティールも記録)
全ての積み重ねの結果、ボイキン氏にとっては良いシーズンだっただろう。2007年に大学を卒業し、ハピネッツでは40勝-12敗の成績で東地区3位、プレーオフではシード権も手に入れる事が出来た。
“彼は(選手の意見を)何でも受け入れてくれるコーチ、たぶんこんなコーチは高校時代ぶりだよ”と中村監督について語った。”大学時代の監督(マイク・アドラス氏)もとても良かったけど、中村監督は、彼は僕のことを理解してくれて僕がやりたいプレーをさせてくれた”
*
ハピネッツはプレシーズンマッチを負け無しの5勝、レギュラーシーズンを開幕12連勝と好発進した。17勝2敗と、2敗してからも再び12連勝と快進撃は続き、2月9日の時点で29勝5敗としていた。(その一方、埼玉ブロンコスは今シーズン5勝のみ)
秋田は勢いそのままに勝ち上がってのぞんだ5月25日、決勝、対琉球ゴールデンキングス戦で103-89と惜敗した。
“僕らより力の差が大きく上回っていたわけではないし、負けた感じがしないんです”とボイキン氏は伝えた。
“僕らはドラマチックな勝ち方をした試合がいくつかあったし、それと良い時と悪い時も何度かあった”とカリフォルニア出身の彼は付け加えた。”僕のお気に入りの試合は、岩手戦、ファイナルフォーを(有明行きが)確信した時だね”(5月11日東地区準決勝第2戦を82-59で下した)
“僕はたくさん試合してきたし、大勢の人の前でもたくさんプレーしてきた”、彼はこう続けた、”でも、アウェーで、全員がピンクを身に付けて相手の体育館を(秋田が)丸ごと占領しちゃうような中ではプレーしたことがない。あれは信じられなかった。きっとあの試合がプレーしていて一番楽しめた試合だったかな、、、それと、言葉はよく分からなかったけど、ファンのみんなと秋田県民歌を歌えたこと。こんなシーズンを過ごせたのはファンのおかげだよ”
ファイナルから一夜明け、中村監督行き付けの飲食店でチーム全員でご飯を食べた。
“みんなハッピーだったし、みんなとても良い時間を過ごせたよ”とボイキン氏は夕食会について述べた。その後、73歳の中村監督について話題が切り変わった。
“彼は僕が知っている70歳オーバーの誰よりもエネルギーのある人だよ、、、、彼は(バスケ含めあらゆることに対して)知識が豊富だからね”とボイキン氏は話した。
“彼はまだまだ指揮を執れるし、誰かが(監督として)引っ張ればすぐやるだろうね”
ノーザンアリゾナ大卒業後、ボイキン氏のプロとしてのキャリアの中で、ポーランド、ギリシャ、イタリアで足踏みをしたこともあった。コート上での決意と強い精神力をモチベーションとし、日本では初となった、13-14の今シーズン、彼は高い目標を持って戦っていた。
“僕は日本に行く前、リバウンドでタイトルを取りたいと言っていたんだ”とボイキン氏は打ち明けた。”これは僕にとって今も今までも大きな目標にしていること。僕が試合中、唯一自分でコントロール出来ることと言えば、努力と熱意だと思います。僕にはこれをコントロールすることが出来るので、リバウンド王を取ることも可能だった訳です。だいたい、(試合が)終わって見ると、高い数字を記録しているんですよね”
“僕はそれを勝ち取るために来て、実際に勝ち取ることが出来てとても驚いてるよ”
ハピネッツにとってボイキン氏は、チームにとっても実に必要不可欠な存在で、リーグの中でも最も優れたオールラウンダーなプレイヤーの一人だったと言える。彼が来シーズン14-15もハピネッツでプレーするとなれば、ローポストでの活躍は言うまでもなく、ファイナルフォー行きも約束されるだろう。
ボイキン氏は来シーズンについて、妻と代理人とじっくり話し合って今後のことは決めていきたいとしている。ヨーロッパに戻ってプレーすることも視野に入れているとのこと。
bjリーグ特有のスポーツコートについて、過去8シーズン取材してきた選手の誰しもが口を揃えて(木の床ではなくプラスチックコートでプレーするのが)嫌だと言っている。
共通して言われ続けているのが、木の床よりも身体への負担が大きいということ。
“スポーツコートは僕の膝を本当に痛めるんだ”とボイキン氏は言い、その床での”試合数の多さ”についても言及した。
“それと2日連続で試合すること、その試合との間に回復時間が24時間もないことには、あまり長く付き合っていられないよ”
やはりこれからの期待の星として今シーズンのチームに大きく貢献した富樫勇樹選手についてもボイキン氏は率直にこの20歳のポイントガードのパフォーマンスについて感想を述べた。
“もし東地区を1位で終われていたら勇樹がシーズンMVPだっただろうね”とレギュラーシーズンの活躍もひっくるめて称賛した。
ボイキン氏によると、富樫選手をあの若さと年齢でスターに変貌させたのは彼の練習姿勢にあるとしている。
“彼は本当にハードに取り組むし、中に切り込んできたときは素晴らしいくらいフィニッシュまで持って行くのがうまい”とし、富樫選手が練習後に欠かさずやっている”常にビッグマンがブロックに来ることを想定したフローターの練習”の成果だと付け加えた。
“ミドルレンジのシュートも決めれるし、3ポイントも打てる。彼には素晴らしいボールハンドリングが身に付いていて、、、恐れ知らずで、集中力がある”とボイキン氏は言う。
コート上での富樫選手についてボイキン氏は”相手がどれだけアグレッシブなやつかはどうでもいい、俺がお前を殺してやる、くらいの顔を彼は持っている。そしてその顔こそが彼の恐れ知らずさなんだと思うよ”
“毎日の練習で、こいつはまるで動物のようだった”とボイキン氏は言い、”本当に彼の今後のキャリアには成功が待っているとしか思えない”
リバウンド王は富樫選手が将来NBAでプレー出来るだけの素質を持っていると確信している。
ハピネッツのファンに対して感謝と敬意を持ち、チームの熱い友情も感じながらハピネッツでプレーしたボイキン氏だが、bjリーグのプレーオフの形式に関する意見は真逆なものとして区別しておきたいところだ。
ここ数年間、ジャパンタイムスの取材の中でたくさんの選手や監督が証言してきた通り、bjリーグのミニゲーム形式はやめた方がいい、と彼は主張した。
“僕は、選手たちが2試合を戦って、それで10分ゲームでシリーズの勝負を決めるって言うのには選手たちの努力はそれに(10分に)値しないと思う”
さらに、ファイナルフォーのコンパクトなスケジュール形式もチームによっては対戦相手に向けた入念な準備や調整をする機会が、奪われてしまうこともある。
例えば、琉球のガード・岸本隆一選手。プレーオフMVPにも選ばれ、決勝では34得点を挙げた。あれは全く予期できなかった、とボイキン氏は認めた。
“あの試合の岸本はとんでもなかった”とボイキン氏は言った。”あまり彼のことは分析していなかったんだ。沖縄と対戦したことはなかったからね、、、、彼らは決勝の舞台を経験上知っているし、何をすべきか分かっていた。それが僕らには足りなかった。僕らは富山に対してずっと準備していたし、そっちの方に気が向いていたからね”
ボイキン氏にはシーズン通しての活躍に称賛を送るとともに、秋田ノーザンハピネッツにとってはハリウッド映画のようなハッピーな終わり方は出来なかったが、確実にリーグの中でもエリートフランチャイズの一つとなることが出来た。そして今回の飛躍的な活躍とこの歴史は、若いフランチャイズ(球団)としては確実に経験しておきたかったことだろう。